【解説】 古代史 上田正昭さん追悼
- 2016/4/13
- 尾道のニュース
ニュース解説 ジャーナリスト 毛利和雄
1948年生まれ。早稲田大学第一政治経済学部卒業。NHK入局後、奈良、大阪局を経て、歴史遺産、景観、まちづくりを担当のNHK解説委員をつとめた。NHK退局後、鞆の浦に在住。これまでの経験を活かし、歴史や文化資産を活かしたまちづくりについて広く伝えている。ラジオ出演や講演活動も多い。
※4月11日(月)放送の内容をWeb用に再構成したものです。
東アジア世界の中で日本の古代史を明らかにする研究で、戦後の日本古代史に大きな足跡を残された上田正昭さんが先月、亡くなられました。88歳でした。きょうはジャーナリストの毛利和雄さんに、お話を伺います。
毛利さん、古代史の取材には長年携わってこられましたが、上田先生にはお世話になられたのですか?
上田先生は、先月13日に亡くなられ、これまでに新聞各紙に追悼記事が載りました。私が現役のころから付き合いがあった考古学や古代史を専門に取材してきた編集委員クラスの人たちの追悼記事が大方ですが、マスコミの世界の人間も多くがお世話になったのだなぁと感慨深く読みました。
戦後の日本古代史に大きな足跡を残された偉大な研究者でしたが、気さくにどなたにも接しられるし、偉ぶったところがなくて、私のようなものにも先生の方から声をかけていただけるようなところがありました。お目にかかり、お話しを伺えると元気が出てくるということでした。
毛利さん、上田先生にお世話になったそうですが、一番の思い出は?
京都府亀岡市にある小幡神社のお宅にお伺いしたことがありましたが、何の件でお邪魔したのかなぁと考えてみましたら、アジア史学会のフォーラムを九州国立博物館で開き、その司会をさせていただくことになり、その打ち合わせにお伺いしたのでした。
アジア史学会は、歴史の史と書く史学会ですが、日本だけでなく中国、韓国、北朝鮮などの歴史、考古学をリードされてきた研究者の方々を組織してできた学会で、1990年に設立され、上田先生は1996年から会長に就任されていました。
九州国立博物館が開館したのが2005年ですから、その年か翌年に開かれたのだと思いますが、アジア史学会のフォーラムには、上田先生のほかに中国から考古学の王仲殊先生や沖縄学の外間守善先生などがパネリストで国際的な研究の一端をお伺いしました。
上田先生は古代史がご専門ということですが、神社の宮司でもいらっしゃったそうですね?
兵庫県城崎のご出身ですが、京都府亀岡市にある古代から続く小幡(おばた)神社に代々続く上田家に中学時代に養子入られました。その関係もあり、国学院大専門部に進まれ国文学者の折口信夫らに学んだ後、戦後になって1947年京大文学部史学科に入学。卒業後は高校教諭を経て63年京都大学の助教授、71年に京都大学教養部の教授に就かれました。
まだ若いころ、郡評論争という日本古代史上有名な論争があり、それに関わって名を成されました。郡評論争というのは、日本に古代の律令国家が出来上がるころの地方組織に国、郡、里があるのですが、日本書紀にかかれているように最初から郡という字が使われたのか、それとも最初は評という字が使われ、その後郡という字が使われるようになったのかという論争です。上田先生は、最初は評という字が使われたという説にたたれていました。
この論争に関しては、藤原京、奈良の都の前に今の奈良県橿原市にあった都ですが、藤原京跡から木簡、気の札に字を書いたものですが、評という字が書かれた木簡が出土したことで決着がつきました。
そのほかにも、日本の古代史研究に大きな足跡を残されたそうですね?
戦争が終わるまでは、大学の中で日本史の研究をしても、それは外部に公表してはならない。日本書紀に書かれたことをそのまま本当の歴史として教えなければいけないという時代もありました。
上田先生は、戦時中に女子生徒が工場で働かされるのを監督しなければいけない立場になり、社会情勢などを自由に話せないような状況を経て敗戦を迎え、日本の本当の歴史を明らかにしなければいけないと思ったところから研究や教育が始まったというインタビュー記事を、去年の終戦の日のころ、どこかの新聞で読んだ記憶があります。
日本の歴史は稲作にしても仏教にしても、海外から朝鮮半島を通じて伝来した文化が多いわけですが、古代の日本で朝鮮半島、中国大陸から渡来した人々が果たした役割を検証した『帰化人』という著書で(65年)で、戸籍がない段階に「帰化人」は存在しないと指摘されたのがきっかけとなり、ほとんどの教科書が「帰化人」という言葉をやめて「渡来人」と表記するようになりました。
また、日本の古代の王権の形成史において奈良県東南部と河内、今の大阪府にある巨大な前方後円墳をどう理解するかも研究者によって意見が分かれていますが、上田先生は著書の『大和朝廷』(67年)の中で、日本の古代王権は単系で発展したのではなく、奈良県の三輪地域で4世紀前半に三輪王権が成立し、5世紀の河内王朝へと王権が受け継がれたとする河内王朝論を説いたことでも知られています。
著書は著作集(全8巻)など81冊、編著・共著は541冊。
日本の古代史の見直しに大きな役割を果たされたのですね?
日本の古代史に関して、中央の大和からみた中央史観ではなく、地域からの視点で歴史と文化を考えることを説かれ、民俗学や神話学をも取り入れられるなど大きな視野で歴史を説かれました。
それに加え、帰化人ではなく渡来人という呼び方を広められたようにアジアの中で日本の歴史を見ていかなければいけないということを強調されました。
地域からの視点と広く当時の世界を見渡さなければいけないということからグローバルとローカルを組み合わせたグローカルという視点の大切さも強調されました。
学問上の研究だけでなく、社会的にも研究をもとに大きな影響を与えてこられたということですね。
中国地方では、島根県が出雲神話で有名ですが古代史の宝庫ですから、島根県とのかかわりが深かったのです。出雲大社の隣接地に島根県立古代出雲歴史博物館が2007年にオープンされましたが、その設立準備の時から大きく尽力されまして初代の館長を務められました。開館式の取材に私も出かけましたが、その時に久しぶりにお目にかかったのを思い出します。
上田先生の研究とのかかわりでは、先月のこのコーナーでお話ししました群馬県の上野三碑は古代国家の成立のころに作られた多胡郡の成立の事情がうかがえる碑文を刻んだ石碑で来年、世界記憶遺産に登録されることが期待されています。
また、朝鮮通信使の記録も来年、世界記憶遺産に登録が期待されていますが、日韓共同で推薦し今後の交流に向けてのきっかけになるでしょう。朝鮮通信使の研究でも上田先生は大きく貢献されました。
さらに、来年は世界遺産では玄界灘に浮かぶ沖ノ島と宗像大社が登録の可能性がありますが、大和政権と朝鮮半島との交流を示す重要な遺産です。
そして、河内王朝説の根拠となった古市百舌鳥古墳群も、沖ノ島に次いで世界遺産登録を目指しています。
そのように上田先生が大きくかかわってこられた遺産が次々と世界遺産や世界記憶遺産に登録されるのを目前にして亡くなられたのは、本当に残念です。