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エフエムおのみちのスタッフが更新していきます。
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2007年01月28日

トイカメラ その1

以前、エフエムおのみちの隣り、「尾道絵のまち館」で

「チープインパクト」という写真展を行いました。

この時使用したのが、外国製のトイカメラです。

トイカメラとはLOMO(ロモ)やHOLGA(ホルガ)に代表される、

ロシアや中国などで生産されたチープな作りのカメラです。

トイカメラの名の通り“おもちゃレベル”のカメラで、

決して完成度は高くありません。

値段も安いものから、結構値の張るものまであります。

日本では、90年代後半にロシア製トイカメラ「LOMO」がブームの火付け役となり、

以降世界中の様々なトイカメラが紹介されるようになりました。

トイカメラで撮った写真は、日本製のカメラでは撮ることのできない

味わい深い描写や発色が魅力で、世界中の写真ファンや

アーティスト達に愛されています。

 

最近はデジタルカメラが全盛ですね。

誰でもカンタンにきれいな写真が撮れ、

撮った写真をすぐに確認できる、

本当に無駄のないカメラです。

 

しかし、トイカメラには、

予想も出来ないような写真が撮れるという

利点(欠点)があるのです。

みなさんも「おおらかカメラ」いかがですか?

 

img040

上の写真はHOLGAで撮影しさらに特殊な現像をしたものです。

 

丸山眞男とヒロシマ  ~ある新聞記事の感想~

中国新聞の記者さんと話しているときに、記者さんが「備後はカタカナのヒロシマの捉え方が(広島とは)全然違う」と言った。カタカナのヒロシマとは原爆のことだが、そのいい方には原爆被害から反核運動、被爆者援護法など原爆に関するいろいろなものが含まれているように思えた。僕はあえて「広島市の8月6日は何万の人の命日ですから」とこたえた。僕にとって政治的なことは後ろに小さくなっていて、あの日「今日も暑い日になるねえ」と、軒の間から覗く青空を見上げた婦人が蒸発する、現実の重さをもたない、映画のワンシーンのような光景が浮かぶのだ。それはいつも、うしろめたさをともないながら。

この話になったのは中国新聞に載ったある記事を探してもらったことによる。記事(1998年8月18日掲載)は政治思想史学者丸山眞男の被爆体験と思想とのつながりを考察するものだった。僕はその記事で丸山眞男が被爆者であることを知った。被爆から38年経った1983年、丸山眞男は広島の医師から「政治思想史への関わり方のなかで、原爆は無縁のものだったのでしょうか」という問いが書かれた手紙を受けとる。それへの返信のはがきが記事に取り上げてあった。僕は切り抜いていた記事をどこかにしまい込み、見失ってしまったが、高名な学者が被爆者だったということだけでなく、はがきにあった生の感情が記憶に残った。記事に取り上げられていた、返信のはがきはこういうものだった。

 

小生は「体験」をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風 土(ナルシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです。もし私の文章からその意識的抑制を感じとっていただけなければ、あなたにとって縁なき衆生とおぼしめし下さい。なお、私だけでなく、被爆者はヒロシマを訪れることさえ避けます。(略)被爆者ズラをするのがいやで、今もって原爆手帳の交付を申請していません。(「丸山眞男手帖」第6号)

 

このはがきの文面から僕は、親が子供に痛いところを指摘され、自覚していて認めざるを得ない腹立たしさのような表現だと、妙なことを思った。「戦後の思想界」をリードしてきたといわれる丸山眞男が、一読者になぜこんなにも生な感情を表す返信を送ったのか。

丸山眞男が自身の被爆のようすを一般に初めて語ったのは、被爆から20年経った1965年に行われた講演「二十世紀最大のパラドックス」であった。爆心地から南へ4キロの宇品町にあった船舶司令部で、一等兵として彼は被爆した。被爆の状況の部分を講演から引用する。

 

あれはちょうど毎朝の点呼の時間で、私たちの部隊は戸外で参謀のはなはだ退屈な講話を聞いていた時です。私どもの集合していたすぐ前に、船舶司令部の非常に高い塔があって、キノコ雲はまるでその塔のすぐ背後からたちのぼっているように見えました。私たちはあの高塔が熱の直射や猛烈な爆風をかなりさえぎってくれたように思います。(略)翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷者が多いのにおどろきました。しかも私は放射能などということに無知なものですから、その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。(「丸山眞男集」第9巻、岩波書店)

 

このような体験をしながら、丸山眞男は自分を「至近距離にいた傍観者」で、被爆者と認めようとしなかった。広島で生活をしていた人のように、家族が原爆にあってもいないし、被爆から13日後、母親の死の知らせを聞いたショックで原爆のことを考えられなくなったこともそう思わせたかもしれない。

 中国新聞に1969年8月5日と6日掲載された記事「二十四年目に語る被爆体験-東大教授丸山眞男氏の「思想と行動」-」のための8月3日のインタビューで、丸山眞男は「数え切れない死体。船舶司令部前の広場に横たわった何百という人の悲惨な唸り声が、今でも耳に聞こえるよう」と話し、それと同時に「人間というものは、悲惨とか、むごたらしい光景というのに無限に深い不感症になる。本当に怖い気がします。すぐ慣れてしまう」と話している。傍観者としての原爆に慣れていき、過去となり考えなくなるうしろめたさ。その一方で日常生活の放射能障害の不安という被爆を内部に持ち続ける。その相反する二つが、原爆体験の思想化に必要な、内にある生理的なものを形成させ得なかったように思われる。1977年、被爆後最初で最後の広島訪問をした丸山眞男は、原爆慰霊碑の前で思わず「ここに来るのが怖かった」と呟いた。

 

この高名な政治思想史学者も、僕にとっては音楽評論家、吉田秀和さんのエッセイに登場する人物だった。例えばモーツアルトプログラムの演奏会で、吉田秀和さんに出会ったとき「あなたや小林(秀雄)さんが悲しみのことばかり書くから、モーツアルトの明るさに陽が当たらない」というような話をする音楽人として。譜面をなぞりながらワーグナーを聴き、フルトヴェングラーの演奏を論じた。

戦後思想史に大きな足跡を残した丸山眞男は1996年、終戦の日、そして母の命日の8月15日に、この世を去った。

思索ノートに、「私が死んだときには、フォーレ「レクイエム」のレコードをかけてもらいたい」と書いた丸山眞男は、遺言に「香典類は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上残った場合には、原爆被災者に、あるいは原爆被害者法の制定運動に寄付する」と書いたのであった。 (K)

 

 

2007年01月24日

トリ

最近、家の窓から見える鳥を観察しています。
今まではあまり気にならなかったんだけど、気にしはじめると異様に気になってきて、野鳥観察図鑑まで買いました。

季節柄、よく見かけるのは、メジロ、ヒヨドリです。もちろんカラスやハトも見かけますが、年中、そこら中にいますね。

いちいち鳥の名前を気にし始めて気づいたことですが、トリも種類によって鳴き方、木のとまり方など様々です。ヒヨドリはさえずりまくってせわしなく飛んでいるし、メジロはきれいな鳴き声でビワの花をつつきに来ています。小さいので余計にかわいらしい感じがします。それから個人的に渋いと思うのはツグミです。ツグミはよく見ないと気づかないぐらいジッとしています。ときおり辺りを見回しますが、ヒヨドリのやかましさにくらべるとなんだか哲学でもしてそうな雰囲気です。

しっかりと観察する時間がなかったので、 本当にそうだったかいまいち自信がありませんが、 アジロやジョウビタキらしき鳥も見かけました。それから警戒心が強く、 あまり姿を見せないウグイスを見たときはうれしかったですね。 「チャッ チャッ」という鳴き声はよく耳にするのですが、 あまり見かけることがありません。 ちなみに鳴き声は千光寺にある引っ張ると上から珠が一つずつ落ちてくる仕掛けの大きな数珠、 あの音にとても似ています。

実際に、まだ見たことはありませんが、尾道にはミミズクの一種「アオバズク」もいるみたいです。図鑑によれば「ホッ ホッ」と2度繰り返しながら、鳴くそうです。この鳴き声はこの夏、よく耳にしました。夜になると聞こえるのでフクロウか何かなんだろうなと思ってましたが、やっぱりそうでした。時折、民家のテレビアンテナなどに止まってたりするそうです。小型でハトくらいのサイズです。いつか見てみたいですね。

今まで気にすることのなかった鳥ですが、いろいろと調べて、気をつけてみていると身の回りにたくさんいることが分ります。名前をしらない時は、タダのトリ、あるいはコトリでしかなかったものが、名前がわかるとぐっと親しみがわいてきます。

近いうちに、いつでも身近に置いて、欲しいときにさっと取り出せるフィールドスコープ(単眼鏡)を買おうかなと考えています。 Money mouth

 

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