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2009年11月29日

雪の待ち合わせ

夜、雨はみぞれに変わり、突堤の先にある灯の中だけ、 静かに海面へ降っているようだった。

僕は初めて食事をする人に、待ち合わせの電話を入れる。

「仕事が終わったら、電話します」

 

こんな日に、待たせるのはまずいな、と思う。

仕事は事務所の戸締まりである。待つことが、仕事。僕は終わる時間を決められないし、 正確な時間を知ることもできない。

いつまで待たなければいけないの?と、思っているんだろうな、と思う。

なぜ、 はっきり待ち合わせの時間が決められないの?と、思っているんだろうな、 と思う。

お腹すいたな。いつまで待てばいいの?と思っているんだろうな、と思う。   

暖房の効いている会社で待っているんだから、少しくらい待たせるのは許されるな、 と思う。

尾道にめずらしい雪を見ているんだろうな、と思う。

待ち合わせを忘れているかも知れないな、と思う。

もう僕の存在も忘れているかも知れないな、と思う。

クレーン台で餌を待っている、猫の背中にも、雪は静かに積もっているんだろうか?

 

「これから迎えに行きます」

電話を入れた時、僕は感じるのだ。綿のように疲れていることに。

そうして、明日の朝、雪が積もっていることだけが、望みだということに。(k)

 

 

 

 

 

2009年07月05日

机の上

仕事場の机の上は、書類やチラシ、営業関係のファイルなどが、ぐるりと囲んで砦を作っている。外敵の侵入を防ぐのじゃなくて、 逃げ出すのを防いでいるよう。私は性格がひねくれているから、狭さや、息苦しさを感じない。むしろ居心地がいいのだ。 臆病な小動物が狭いところに隠れるように。そんな居心地のいい場所に、最近不安要素が発生した。机に取材用のカメラを置くようになったのだ。 コーヒーやお茶をなみなみと入れたマグカップを置いていた横を置き場所にしたのだ。狭い砦の中には、そこにしかスペースがなかったのだ。 そんな精神状態で何日か過ごすうちに,慣れてくるものである。怖いことが起こる前に、気にならなくなる前に、対策しなければと思い立ち、 CDケースを3枚下に敷いた。ずぼらな性格は別な棚に置き場所を決めるとかの根本的な対策はたてない。今日も取材から帰ってきて、 同じ場所の机の上にカメラは鎮座する。(K)

2007年12月08日

琳派の月

 

夢の話し。

大正時代。ビルの三階の事務所である。女が窓際に立って、下を見ている。

「何を見ているんですか」という私の問いに、女は振り向かないで、頭を窓からのぞかせたまま 「中村蟹右衛門の孫が死んだの」といった。

半分、風にさらわれた声はかろうじて聞こえる。

「それは見えないでしょう」と私がいうと、

「見えますよ。あなたも見てご覧なさい」という。

私は女と頭を並べて窓から見下ろすと、通りを走るどの車の屋根にも白いペンキで「中村蟹右衛門の孫死す」と書いてある。 車の色はみんな茶色である。背中に識別番号を付けられた甲虫のような不自然なものが動いている。

「なぜあんなことが書いてあるんです」と問うと、

「百年後のことだからです。それに当代一の歌舞伎俳優ですし」と女は、さも当たり前のようにいった。 横にならんだ女から古風な香の臭いがする。大正時代へ来ているのだなと、私は思った。空は青く、低い屋根が敷き詰められ、 遠くまで見わたせる。

「死んだって書いてあるのは、あなたのことですよ」と突然、女はいった。

私はなぜか驚きもせず

「お祖父さんは歌舞伎俳優でもなければ、蟹右衛門という名でもありませんよ」というと、女は「お母様に、 あなたは川から流れてきた子だと教えられたじゃありませんか。」という。幼い頃、悪さをして叱られ、いわれたことに思いあたった。しかし、 幼い頃、叱られるときには誰でもいわれてきたことではないか。

「そんな・・・・」と私がいいかけると、

「あなたがどう思おうと、今から百年後の今日、死んだことだけは、あることなのです。」と女はいった。そう女にいわれると、 そうか百年後の今日、死ぬのかと納得した。だが、私が拾われてきた子で、歌舞伎俳優の孫であることは、ねじれた間違いのように思えた。

そんなことを考えていると、いつの間にか陽が沈んで、窓の向こうに大きな金色の満月がのぼっていた。琳派の月のようだなと、 思っていると

「あなた、わたしに見覚えがあるでしょう」と女がいった。

現代に生きている私が、大正時代の女を知っているわけはないだろうと思いながら、月あかりに顔を覗き込むと確かに見覚えのある顔である。

「74年後には、あなたとはお会いしているのよ。でも、わたしを見つけてはいないわ」と女はつづけた。

「今日、おじいさまにわたしの香を聞いてもらえば、遺伝子の螺旋に絡みついてあなたに受け継がれ、そうしてわたしを見つけるのです」 と女はいった。私はこれからこの女を見つけるのかと思った。

「目印にメールを入れておきましょう」というと、女は手に持った巾着袋から携帯電話を取り出し、慣れた手つきで、あっという間に終わらせた。 その姿は恐ろしくなるほどの驚きであった。その時、女の肩越しの窓に、一部しか見えないほど大きく膨らんだ満月が見えた。

 

*     *     *     *     *     

 

 目が覚めると机に突っ伏して寝ていた。顔を上げて窓の外を見ると、あたりまえの月が光っている。

 メールの着信音が鳴った。どの時代から来たのだろう。 闇の中で緑色のモニターが点滅している。

 

 

 

 

尾道市立美術館の 「大正シック -ホノルル美術館所蔵品より-」展は1216日 (日)まで開催です。 (K)

 

2007年06月18日

黒猫キィー死す

営業に出ようと荒神道を通りかかると、被服店からカレンが出てきたところだった。臆病で逃げ込もうとしているカレンを撫でていると、 奥さんが顔を出した。僕がキィーはどうしているか訪ねると、奥さんは泣きそうな顔になり、キィーちゃんは先月30日に亡くなったといった。 カレンちゃんは寂しがって私のそばから離れないとつけくわえた。2週間、府中の病院に入院していたこと、 死期が迫った死ぬ2日前に家に連れて帰ったこと、苦しんで大きな息を三回して死んだことを話した。今は火葬して骨を持っている、 四十九日が過ぎたら屋上のプランターの土に埋めてやるという。そして僕に可愛がってくれてありがとうと、奥さんは礼をいった。

メールを打った「先月キィーは白血病で死んでいた」

メールが来た「かわいそうなキィーちゃん」

 夕方、番組を提供してもらっている骨董店で、津和野から来た業者から仕入れたばかりの古伊万里のケーキ皿を見た。真ん中に龍の絵があり、 その周りに蛸唐草が丁寧に描かれてあった。愛嬌のある龍の表情を見ながらキィーのことを思った。家に持ち帰り皿を眺めていると、 染め付けのブルーの向こうに、最後に会った時の痩せこけて平べったくなった、 黒猫キィーの足下から歩いて行く後ろすがたが浮かんだ。(K)

 

2007年04月01日

草木染のハンカチ

千光寺公園の桜が開花して初めての日曜になった今日は、朝早くから公園駐車場は満車だった。人が多いと山がざわついているようだ。

 取材に行った「郷土作家工芸展」で、草木染のハンカチを買った。 黄花コスモスの花びらで染めたハンカチは光を集めたような温かい山吹色をしていた。会計を待っている間にもう、後悔が起こった。 「買ってどうするのだ」「自分で使うのか」そんな声が聞こえた。僕が持っても似合いそうにない。使い方がわからないのに、 美しいから欲しいのだ。所有欲だけの浅ましさに思える。美しいものを買うとき、 恥ずかしいと思う気持ちがどこかにあるのはそんなことが少しはあるのかも知れない。

そんな思いに関係なく、これを打っているキーボードの前にあるビニールに入ったハンカチは明るく美しい。 (K

 

2007年02月25日

ポップスター

音痴だとは思わないけど、鼻歌でも歌っているとクスクスと笑われたりする。本人は鼻歌がでるのだから、機嫌はいいのである。 歌が下手だと自覚しているから、無意識で歌っているのだ。相当いいことがあって気分がいいのである。そこへ、クスクスが耳にはいる。 そうするともういけない、身体が地上より1センチ浮かんで、顔に血液が集まる。冷や汗が風呂上がりかと思われるくらい髪の毛からしたたる。 大概そうなると、その変わりようにびっくりした周りの人は、 原因など忘れて、「気分でも悪いの」と聞いたりする。僕は「なんでもないんです。」と言いながら、あなた笑ったでしょう、 と心の中で呟くことになる。

そんな僕が、ラジオ局に勤め、朝から晩まで音楽漬けである。

 この前、パーソナリティの國川さんが番組のテーマで、生まれ変わったらどんな職業に就くかというテーマを質問してきた。

「生まれかわるのならねぇ、・・・・。ポップスター!!」と僕。

少し離れたパソコンの前で國川さん「ハムスター??」

大きな声で僕「違う。ポップスター」

こんな質問にも、スポットライトがあたるステージに立てないのかと、僕は思うのです。(K)

 

2007年02月04日

暖冬に雪を思う

今年は暖冬だなと思うのです。最近、歳をとったせいか暑さ寒さに敏感です。身体に堪えるのでそうならざるを得ない。それが、今年は 「今朝は寒さが堪えるな」とか、「今夜は冷え込むな」という回数があきらかに少ない。瀬戸内ではもともと雪は少ないから、 雪見を楽しむことは多くはないけど、その分、降ると幾つになってもわくわくしたものだ。その楽しみも無さそうだ。そうなると、 雪景色を見たくなるのが人情で、昔の雪の朝を思い出したりするのです。目が覚めると、カーテンのすき間から漏れ入る光で部屋が明るい。 しーんとして音が聞こえない。部屋がどこか違うところに動いたような気になった。雪が降ったのだから寒くはあったんだろうが、 そんな記憶は全くない。カーテンを開けた時、溶けかかった雪が散乱と輝いて目映かった。こんな楽しみは今年だけでなく、 温暖化が進んで瀬戸内ではもうなくなるのかな。『冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。』 が実感としてわかり始めた歳になったというのに。(K)

2007年01月28日

丸山眞男とヒロシマ  ~ある新聞記事の感想~

中国新聞の記者さんと話しているときに、記者さんが「備後はカタカナのヒロシマの捉え方が(広島とは)全然違う」と言った。カタカナのヒロシマとは原爆のことだが、そのいい方には原爆被害から反核運動、被爆者援護法など原爆に関するいろいろなものが含まれているように思えた。僕はあえて「広島市の8月6日は何万の人の命日ですから」とこたえた。僕にとって政治的なことは後ろに小さくなっていて、あの日「今日も暑い日になるねえ」と、軒の間から覗く青空を見上げた婦人が蒸発する、現実の重さをもたない、映画のワンシーンのような光景が浮かぶのだ。それはいつも、うしろめたさをともないながら。

この話になったのは中国新聞に載ったある記事を探してもらったことによる。記事(1998年8月18日掲載)は政治思想史学者丸山眞男の被爆体験と思想とのつながりを考察するものだった。僕はその記事で丸山眞男が被爆者であることを知った。被爆から38年経った1983年、丸山眞男は広島の医師から「政治思想史への関わり方のなかで、原爆は無縁のものだったのでしょうか」という問いが書かれた手紙を受けとる。それへの返信のはがきが記事に取り上げてあった。僕は切り抜いていた記事をどこかにしまい込み、見失ってしまったが、高名な学者が被爆者だったということだけでなく、はがきにあった生の感情が記憶に残った。記事に取り上げられていた、返信のはがきはこういうものだった。

 

小生は「体験」をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風 土(ナルシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです。もし私の文章からその意識的抑制を感じとっていただけなければ、あなたにとって縁なき衆生とおぼしめし下さい。なお、私だけでなく、被爆者はヒロシマを訪れることさえ避けます。(略)被爆者ズラをするのがいやで、今もって原爆手帳の交付を申請していません。(「丸山眞男手帖」第6号)

 

このはがきの文面から僕は、親が子供に痛いところを指摘され、自覚していて認めざるを得ない腹立たしさのような表現だと、妙なことを思った。「戦後の思想界」をリードしてきたといわれる丸山眞男が、一読者になぜこんなにも生な感情を表す返信を送ったのか。

丸山眞男が自身の被爆のようすを一般に初めて語ったのは、被爆から20年経った1965年に行われた講演「二十世紀最大のパラドックス」であった。爆心地から南へ4キロの宇品町にあった船舶司令部で、一等兵として彼は被爆した。被爆の状況の部分を講演から引用する。

 

あれはちょうど毎朝の点呼の時間で、私たちの部隊は戸外で参謀のはなはだ退屈な講話を聞いていた時です。私どもの集合していたすぐ前に、船舶司令部の非常に高い塔があって、キノコ雲はまるでその塔のすぐ背後からたちのぼっているように見えました。私たちはあの高塔が熱の直射や猛烈な爆風をかなりさえぎってくれたように思います。(略)翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷者が多いのにおどろきました。しかも私は放射能などということに無知なものですから、その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。(「丸山眞男集」第9巻、岩波書店)

 

このような体験をしながら、丸山眞男は自分を「至近距離にいた傍観者」で、被爆者と認めようとしなかった。広島で生活をしていた人のように、家族が原爆にあってもいないし、被爆から13日後、母親の死の知らせを聞いたショックで原爆のことを考えられなくなったこともそう思わせたかもしれない。

 中国新聞に1969年8月5日と6日掲載された記事「二十四年目に語る被爆体験-東大教授丸山眞男氏の「思想と行動」-」のための8月3日のインタビューで、丸山眞男は「数え切れない死体。船舶司令部前の広場に横たわった何百という人の悲惨な唸り声が、今でも耳に聞こえるよう」と話し、それと同時に「人間というものは、悲惨とか、むごたらしい光景というのに無限に深い不感症になる。本当に怖い気がします。すぐ慣れてしまう」と話している。傍観者としての原爆に慣れていき、過去となり考えなくなるうしろめたさ。その一方で日常生活の放射能障害の不安という被爆を内部に持ち続ける。その相反する二つが、原爆体験の思想化に必要な、内にある生理的なものを形成させ得なかったように思われる。1977年、被爆後最初で最後の広島訪問をした丸山眞男は、原爆慰霊碑の前で思わず「ここに来るのが怖かった」と呟いた。

 

この高名な政治思想史学者も、僕にとっては音楽評論家、吉田秀和さんのエッセイに登場する人物だった。例えばモーツアルトプログラムの演奏会で、吉田秀和さんに出会ったとき「あなたや小林(秀雄)さんが悲しみのことばかり書くから、モーツアルトの明るさに陽が当たらない」というような話をする音楽人として。譜面をなぞりながらワーグナーを聴き、フルトヴェングラーの演奏を論じた。

戦後思想史に大きな足跡を残した丸山眞男は1996年、終戦の日、そして母の命日の8月15日に、この世を去った。

思索ノートに、「私が死んだときには、フォーレ「レクイエム」のレコードをかけてもらいたい」と書いた丸山眞男は、遺言に「香典類は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上残った場合には、原爆被災者に、あるいは原爆被害者法の制定運動に寄付する」と書いたのであった。 (K)

 

 

2006年10月13日

黒猫キィーと出会う

エフエムおのみちから駐車場に向かう荒神堂通りの被服店に黒猫キィーは飼われている。

彼(何故だか雄だと決めつけていた)は僕が知り合いになった、初めての猫だ。 この歳まで猫の知り合いがいなかったということはつまり猫好きではなかった。最初、 彼は僕の前を横切って行く不吉な黒猫として登場したのだが、どんな姿だったか記憶にない。良くないことが起こるだろうかという不安と、 横切りやがってという、かすかな怒りを覚えている。西洋の言い伝えに、 黒猫が前を横切ると不吉なことが起こるというのをどこかで読んだことがあったからである。

そんな彼を意識するようになったのは、2年前の秋の日、営業帰り荒神堂を通りかかったとき、 被服店の前でテリトリーの見張をしている彼と会ってからだった。アーケードのやわらかい光の中で、 ほっそりとした肢体をまっすぐ上にのばして座り、宝石を埋め込んだような丸く大きな目で近づく私をじっと見つめていた(と思う、 男女の間でよくある思いこみのように)。その姿は僕にエジプトの死者を守る猫の神を思いおこさせた。優雅で美しかった。 黒猫キィーは動物の猫としてではなく、エジプトの神として僕の意識にのぼったのだ。だが、僕のそんな出会いも彼からすれば、 いつものように見張りをしていたある日、中年のサラリーマンが突然、自分の前に座り込み、じっと見下ろしたということだ。

その後も僕は、餌はくれない。撫で方は知らない。見張りのじゃまはする、うっとうしい存在で居つづけていた。だから、近づいて逃げ出されず、 一瞥される対象で僕がいられるのもキィーの優しさというべきだろう。

 

何度か出会い、無視されながら撫で続けた秋が過ぎ、炬燵を出す話が聞かれ始めた頃、キィーは姿を見せなくなった。

僕はすっかり腹を立てていた。(K)